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久しぶりにハーレーダヴィッドソン映画鑑賞!「イージーライダー!」

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1969年




イージー・ライダー Easy Rider 」

- デニス.ホッパー Dennis Hopper 、ラズロ・コバックス Laszlo Kovacs -<不滅の傑作「イージー・ライダー」>
 映画「イージー・ライダー」は1969年の公開当時、予想を遙かに越える大ヒットを記録しました。世界中で多くの若者に受け入れられたわけですが、それに対し「ヒットは時代の流れが生んだ偶然の産物である」という批判も多かったようです。
 しかし、その批判がまったくの誤りであったことは、21世紀になった今、改めてこの作品を見れば明らかです。映像的な質、音楽性の高さ、俳優達の演技、編集の巧みさ、どれをとっても一級品です。そして、時代性を反映したストーリーも驚くほど古くささを感じさせません。それは、アメリカという国の本質が、実は当時も
今もほとんど変わっていないからかもしれません。
 ジャック・ニコルソン演じるアル中のドロップ・アウト弁護士は、映画の中でこう言っています。
アメリカ人は自由を証明するためなら殺人も平気だ。個人の自由についてはいくらでもしゃべるが、自由な奴を見るのは怖いんだ・・・」
 このセリフ、まさに21世紀初めのアメリカにぴったりの言葉です。それだからこそ、この映画の価値は未だ高いのです。
<「イージー・ライダー」誕生秘話>
 「イージー・ライダー」は、なぜこうも時代性を超越した作品に成り得たのか?もちろん、それは偶然の産物ではありませんが、そこにはいくつかの「ツキ」があったのも確かなようです。
 先ずこの映画の基本構想は、「馬をオートバイに乗り換えたガンマンの物語」だということをご存じでしょうか。主人公の一人デニス・ホッパー演じるビリーは、当然あの有名なガンマン、ビリー・ザ・キッドから来ています。そして、ピーター・フォンダ演じるキャプテン・アメリカの本名は、ワイアットなのです。(もちろん
、ワイアット・アープから来ています)
 そして、この「オートバイ西部劇」という発想は当時、若者たちの間で「オートバイものの青春映画」がヒットしていたことから来ています。「ヘルス・エンジェルス」や「ダーティー・ライダー」などの作品が、インディーズ系の小さな映画会社によって作られ着実にヒットしていました。
 主役でもあり製作者でもあるピーター・フォンダと監督兼脚本家兼主役のデニス・ホッパーは、アイデアが固まるとさっそく製作のための資金集めにかかります。現在のように巨額な費用を必要とはしなかったこともあり、資金は二人の友人から借りることでなんとかメドがつきました。
 その友人とは、当時人気絶頂だったテレビ番組「ザ・モンキーズ」の製作者バート・シュナイダーと演出担当のボブ・ラフェルソンでした。ボブ・ラフェルソンと言えば、この後ジャック・ニコルソンと「イージー・ライダー」の続編とも言える「ファイブ・イージー・ピーセス」を作ることになる監督です。(ちなみに、ジャッ
ク・ニコルソンはモンキーズの映画「Head !恋の合い言葉」の脚本を書いているそうです。
 こうして、「イージー・ライダー」は当時の流行のおこぼれをいただく形で映画化が可能になったというわけです。
<混沌から始まった撮影>
 この映画の撮影は、意外なことにラスト・シーン近く、ニューオーリンズのカーニバルのシーンから始まっています。年に一度のカーニバルですから、当然その日程に撮影も合わせる必要があったのでしょう。
 しかし、この時の撮影は画面上のLSDによるトリップ以上に大混乱の連続だったようです。監督はデニス・ホッパーと決まってはいたものの、正式なカメラマンもなく、脚本も完成していなかったことでスタッフ全員が演出家になったように口だしして、収拾がつかない状況になったのです。改めてこの映画を見ると、このシー
ンだけがまったく別の作品に見えるのはそのせいもあるのです。しかし、それがまたトリップ状態を見事に映像化したようにも見えるのですから、確かにこの作品は好運に恵まれていたのかもしれません。もし、この映画の撮影が、ストーリーどうりに頭から始まっていたら、まったく違う作品になっていた可能性もありそうです。

 なおこの部分には、娼婦の役としてカレン・ブラックが出演しています。彼女はこの後「エアポート75」や「ナッシュビル」などで主役に抜擢され、大物女優へと成長しています。
 結局、この時点で撮影はいったん中断し、根本的な建て直しをすることになりました。共同脚本家として、ベテラン脚本家のテリー・サザーンが迎えられ、脚本が完璧に仕上げられました。さらに正式なカメラマンとして、当時その才能を認められようとしていたラズロ・コバックスが参加。いよいよ本格的に撮影が再開されるこ
とになりました。
<ラズロ・コバックス:ハンガリーからの亡命者>
 ラズロ・コバックスは、ハンガリーから政治亡命してきたカメラマンです。それも、ハンガリー民主化を収めるためにソ連が軍隊を侵攻させたハンガリー動乱を記録フィルムに残すため命がけで撮影を敢行し、それを国外に持ち出した人物です。(この時、いっしょに撮影を行い、ともにアメリカへと亡命したのが「未知との遭遇」や「ディア・ハンター」などで有名なヴィルモス・ジグモントです)
 亡命当初、彼は英語もしゃべれず、当然カメラマンとし組合に入ることもできなかったため、フィルムを現像する作業場の仕事でかろうじて生活していたといいます。その後も、出張カメラマンや保険会社での写真現像の仕事をしていましたが、少しずつ映画の仕事が回ってくるようになります。幸いなことに、その頃映画界では
メジャーとは別に低予算娯楽映画を専門とする会社が次々に誕生、それまでのハリウッド映画とは違う若者向けの作品を作り、それぞれがヒットを飛ばしていました。そのため、どの会社も優秀なカメラマンを求めていたのです。それらの会社の多くは、ホラー映画やオートバイ映画、サーフィン映画などを中心に作品作りを行って
いましたが、その中から現れ、後に多くの有名監督たちを輩出することになったのが、ロジャー・コーマンの作品群だったわけです。
<ラズロ・コバックス:「イージー・ライダー」への参加>
 ラズロ・コバックスもやはり当時オートバイものの映画を何本も撮っていましたが、どれもがくだらない作品だったために、「もう、くだらないオートバイものは撮りたくない」そう思っていたそうです。そのため、最初「イージー・ライダー」の企画を聞かされた時、彼はその映画のカメラマンの仕事をあっさりと断ってしまっ
たそうです。しかし、そんな彼の気持ちをデニス・ホッパーはあっという間に変えてしまいました。デニス・ホッパーは映画に出てくるビリーの衣装と同じ格好で彼の事務所に現れると、完成した脚本を部屋中にばらまき、ストーリーを語りだしました。それを聞いたラズロ・コバックスは、その勢いとストーリーの新しさに圧倒さ
れすぐに仕事を受けると答えたそうです。
 改めて「イージー・ライダー」を見てみると、その撮影の素晴らしさに驚かされるでしょう。風景の美しさは当然のこと、2台のバイクがさっそうと走る姿も実はかなり計算されています。
<ラズロ・コバックス:新しい映画には新しいカメラを>
 この映画でとられたオール・ロケによる撮影は、その後のニューシネマ・ブームの基本となり、未だロード・ムービーの基準になっています。もともとこの手法がとられたのは、スタジオを借りてセットを作る予算がなかったからという現実的な理由からでしたが、それを逆手にとってドラマをよりリアルなものに感じさせたのは
ドキュメンタリー映画で鍛えた彼の優秀なカメラワークがあったからこそです。
 ハンガリーというヨーロッパ文化圏から来た彼は、もともとアメリカ映画をほとんど見たことがなかったといいます。そんな彼に新しい映画手法を確立する役割が回ってきたのは、必然だったのかもしれません。
「古いぶどう酒は古い革袋に、新しいぶどう酒は新しい革袋に」そう言ったのはイエス・キリストですが、神は新しい映画のために新しい男を用意されたのでしょう。
 「イージー・ライダー」の後、彼は白黒映画の名作「ペーパー・ムーン」(1973年・ピーター・ボグダノビッチ)、「ニューヨーク・ニューヨーク」(1978年・マーティン・スコセッシ)、「ゴースト・バスターズ」(1984年・アイヴァン・ライトマン)などの撮影を担当。アメリカを代表するカメラマンのひとりになります。
<画期的な音楽>
 この映画が時代を越えて見られる作品となりえたのは、ラズロ・コバックスの撮影によるところ大ですが、音楽の存在も忘れるわけには行きません。
 この作品以前、ほとんどの映画は映画音楽専門の作曲家が、それぞれの作品のために書き下ろしたものが使われていました。それに対し、この作品では既存の曲から場面にあったものを選び出し、一曲ずつ作者に使用許可を求めるという新しい方法をとったのです。(唯一、ラスト・シーンでロジャー・マッギンが歌っている「イ
ジー・ライダーのバラード」だけは、ピーター・フォンダボブ・ディランに歌詞を依頼して書いてもらった曲です)この方法が可能になったのは、新しい映画に使うに相応しい新しい音楽がこの時期すでに現れていたからでもあります。
 「ワイルドでゆこう」「ザ・プレッシャー」(ステッペン・ウルフ)、「イフ・シックス・ワズ・ナイン」(ジミ・ヘンドリックス)「イッツ・オールライト・マ」「イージー・ライダーのバラード」(ロジャー・マッギン)「ザ・ウェイト」(ザ・バンド)などの曲がこうして選ばれ歴史に残ることになりました。
 後にザ・バンドのロビー・ロバートソンは、「この映画の音楽をザ・バンドに任せてくれれば、もっと素晴らしいものになったはずだ」と言いましたが、当時のザ・バンドの勢いと「ザ・ウェイト」の素晴らしさから考えれば、そうかもしれません。ただし、この時はまだザ・バンドは無名に近い存在でした。彼らが伝説のバンド
となるのは、この映画の「ザ・ウェイト」からと言えるかもしれません。
<役者たちのはまり具合の妙>
 俳優たちの名演というより、その配役の妙もまたこの映画の成功の一因でしょう。特に今考えるとまさに夢の共演と言えるデニス・ホッパージャック・ニコルソンの対決はそれだけでも見応えがありますが、主人公キャプテン・アメリカことピーター・フォンダのクールな演技がまた実に格好いい!
 それとヒッピーのコミューンのリーダー役として登場するルーク・アスキューも、なかなか良い味を出しています。その後、彼はニューシネマ系の西部劇ものになくてはならない脇役俳優となり、本当に西部の荒野に根を張ることになります。
 「イージー・ライダー」は、数々の偶然が重なることで生まれた好運な作品なのかもしれません。それは60年代末の激動があったからこそ生まれた隙間文化の集大成でもありました。ロックがそうだったように、あらゆる文化は隙間文化から生まれています。初めは岩の割れ目から流れ出していた小さな水の流れが、しだいに小
川となり、川となり、ついには巨大な大河となって海にそそぐのです。(まさに「イージー・ライダーのバラード」の歌詞にある「流れる川のように・・・」です)
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